三重県書道連盟

カテゴリー: 書のこみち

墨の昔と現在

文房四宝の1つに墨がある。古くは殷の甲骨文字の時代(約4000年前)にさかのぼり、刻字の前に原稿のような墨書もあったと言われている。また早くに「墨丸」という言葉もあった。日本おいては仏教の伝来と共に奈良時代から製造され始めたと言われている。

現在、製墨の産地は限られ奈良・鈴鹿が代表的である。鈴鹿墨の発祥は延暦年間(平安時代)とされている。墨の原料は油煙(菜種)、松煙(松脂)を始め多種である。なぜ鈴鹿で製墨業がなされたかは、松煙(紀州産)の原料が近くにあり、また鈴鹿山脈から湧き出る良水が製墨に適し手に入りやすかったこと、更に「鈴鹿おろし」の寒風が適していた。

墨造りは早朝四時からスタートし、煤にまみれて厳しい作業である。墨色は原料によって微妙に違い、油煙墨は黒茶であり松煙墨は薄青く出る。また椿や胡麻は他よりも墨色に光沢があり、仮名に適している。そして鈴鹿墨の彩墨も近年大いに注目されている。

昭和の時代、私の記憶では鈴鹿には老舗「玉泉堂」を筆頭に十軒近くの製造元があった。しかし時代とともに衰退し、現在はついに「進誠堂」一軒となってしまった。書道界においても墨液の便利さもあるが、固形墨の良さも見直すべき時代でもある。(鈴峰)

 

三重の看板物語⑤

和菓子  柳屋奉善「老伴」   松阪市中町

天正3年(1575)近江の国日野で蒲生氏郷公から砂糖を賜り、御用菓子司として開業。このころ安土城建設中で、義父信長公をお茶会に招くことを想定で、家宝にしていた硯( 中国の古い軒瓦)加工して型を取り最中(ふた無し)容器に羊羹を流しこみ、コウノトリ絵柄で古瓦」として売り出され、伊勢土産として全国的に知られるようになった。後に豪商三井家当主三井高敏氏により白楽天の詩の中から「老伴」と改めた。

「老伴」の文字は、津の書家市川塔南氏の揮毫。店内には商品名「老伴、越廼雪、桐葉山」などの書もある。塔南は篆隷が得意で、明治に28年第四回内国勧業博覧会で一等賞を獲得。県下に社号標や作品は頗る多い (泉)

三重の看板物語④

和菓子 かぶら煎餅本舗  桑名市南寺町

江戸時代松平定信が谷文晁にかぶらの絵を描かせた。菜根譚の故事に因み、節約勤勉を奨励させるべく将軍家に献上した桑名名産「かぶら盆」と京都の「かわら煎餅」をヒントに、明治の初め初代が「かぶら煎餅」を創業。戦後中断するも2代目が「かぶら最中」とともに名物にした。丸いかぶらは家庭円満、根のひげは子孫繁栄として喜ばれている。

看板の揮毫は数十年前、名古屋書道界の重鎮石田泉城氏(明治22~昭和46年)の筆。氏は長年教壇に立ち、多くの書家を育て酒豪としても有名で、中日新聞の題字揮毫者でもある。(泉)

 

三重の看板物語③

 

和菓子 花乃舎 桑名市

初代が、画僧「帆山花乃舎唯念」と茶の伴であったところから、店名はその名を借用した。

昭和41年12月、東京信濃町の遠州流家元の成趣庵に松永耳庵翁を招いた茶席があり、菓子の注文が花乃舎にあった。四代目水谷孟生さんが、新幹線で「蕎麦餅」を届けた。同席の松永美術館館長の田山方南氏の口添えで、水谷さんが紹介され、翁から「美味しい菓子じゃった」と笑顔。

すかさず「何か一筆」と「紙と墨」が用意され、翁が「花乃舎・耳庵九十二」と書かれた。印がないので田山氏、顔を「カオ カオ」(花押)と二つ叩いた。そうかそうかと、翁が花押を書き込んだ。現在は軸装(箱書き・田山方南)家宝とし、刻字したものが店内に掲げてある。

松永安左ェ門(耳庵)は壱岐生まれ、福沢桃介とともに事業をはじめ、電気、ガス、石炭事業などを経て東邦電力を設立。実業界を引退後、美術品収集と茶道三昧。戦後、九電力を主とした電力再編成に尽力。電力の鬼と称された。

田山方南は鈴鹿市生まれ、文部省に入省。国宝監査官を務める等文化財調査・保存に努めた。(泉)

 

 

 

 

色々な硯

今回は硯の紹介です。

硯は漢時代にはすでに定着しており、歴史が進むにつれて意匠を凝らした硯が職人の手により作られていきました。

写真は蝉の形をした硯です。古代中国では蝉は毎年夏に出てくることから『再生・復活』を意味する大変縁起の良い生き物として好まれました。

この他に陶器の硯、瓦の硯、風景を模した硯など美しい硯がたくさんあります。

良い硯は水を少量入れ撫ぜると、水にとろみがあるように見えます。良い硯は生涯使えますが、たくさん墨を磨る場合表面が摩耗してしまうため、時々砥石で加工したりします。(鼎)

三重の看板物語②

史跡旧崇広堂  伊賀市上野丸之内

津・藤堂藩が伊賀、大和、山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため、十代藤堂高兌(たかさわ)が文政四年(1821)に「有造館」の姉妹校として開設した。「有造館」が儒学中心であったのに対して、崇廣堂は作詩・作文など文学に重心が置かれた。高兌は久居藩主を経て文化3年津藩主となった。倹約、殖産で藩政の刷新を図り、有造館をつくるなど中興の祖といわれている。

明治38年から昭和58年まで図書館として使われた。昭和5年国史跡に指定される。現在残っている藩校は少なく、近畿東海地方では唯一の史跡である。一藩で二カ所に設けられたのは水戸(弘道館)と藤堂の二藩のみである

扁額「崇廣堂」は、交友のあった会津米沢藩の上杉治憲(鷹山)に懇請して書いてもらったもの。この頃治憲は70歳、隠居していたので会うことはなかったと思われるが、名君と言われている鷹山を尊敬して手を尽くして揮毫を依頼したのであろう。

「崇廣」は建学精神のシンボルで、出典は書経。「功の崇期はこれ志、業の広きはこれ勤」からとっている。

 

上杉鷹山

江戸中期の米沢九代藩主。9歳の時、九州の小藩・高鍋藩から上杉家に養子に入る。16歳で藩主となり、質素倹約と産業の開発、厳正と寛大、学問の導入により藩政改革を実施した名君。(泉)

 

三重の看板物語①

看板は半永久的な美術館といわれている。

三重県にも多くの筆書き名品があり紹介する。

まずは「あ」から始まる・伊勢の名物「赤福」。

創業は三百年ほど前の宝永4年、屋号「赤福」は「赤心慶福」に由来し、千利休の流れを汲む茶の宗匠の名づけといわれている。

本店の大きな看板は、中興の祖六代目濱田ちゑが明治20年、創業180年を記念して作ったもので、地元名士矢土錦山(やつち きんざん)に揮毫を依頼した。矢土錦山は漢詩・漢文の大家で伊藤博文の師、また政策ブレーンとして仕え、衆議院議員にもなった人物。

「赤福」を象徴するこの看板は、昔も今も変わらず伊勢参りの旅人を見守り続けている。(泉)

珍しい筆

今回は珍しい筆を紹介します。

写真の左端から、赤ちゃんの髪の毛で作った筆、竹の筆、鶏の羽根の筆です。続いて4本目は山羊、馬、山羊(特大)です。

一般的には兼毫筆といって普通の硬さの筆を練習で使いますが、作品制作となるといろいろな太さ・長さ・材質の筆を用いて自分の意にかなった表現をします。

少しの筆を禿げるまで使うより、たくさんの筆を用意して長く使うのが良いと言われます。少しずつ購入して増やしていくとそれだけでも面白いものです。但し、手入れを忘れないことが筆を長持ちさせる秘訣です。

次回は三重県にある看板の書について紹介します。

文房四宝(文房至宝)

書を学ぶ者にとって最も大切な用具として、筆・墨・硯・紙が上げられる。これらを「文房四宝」と言う。文房とは書斎のことで、書斎における特に四つの宝物として古来より愛玩されてきた。書の美は、用具・用材により大きく左右されるので、その選択や用法には注意を払わなければならない。

次回は「珍しい筆」